京の意匠レポート

どうにかこうにか出来たので張付け。
つーかただ単なる単位稼ぎにこれほど手間取るとは思わなかった。

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江戸時代中期に円山応挙がはじめた写生画は、表面上は平明に見えることもあり、京都じゅうの様々な階層から圧倒的な支持を受けることになりる。 応挙の死後、呉春が応挙風の写生画に余情性を大きく加味した画風を展開し、その画風は四条派とよばれ、更に京都の民衆の支持を得て、円山派とともに京都の近代画壇の中核を担うこととなる。
明治になり東京が首都になると、東京には官主導で工部美術学校がつくられることになるが、京都では四条円山派に属する幸野楳嶺や田能村直入ら陳情などにより、官ではなく民衆の側からの要望として京都画学校の設立されることになる。 このことは東京の工部美術学校のように中央集権的な政治権力の影響を直接受けることがなかったがゆえに、彫刻や建築などの空間芸術が発達しにくいという側面もあった。 しかし民衆や産業界との結び付きは強く、ナショナリズムの台頭とともに伝統絵画の再評価が行われ、明治25年に「西陣織物図案」が発刊されると、その産業界からの要望もあり、竹内栖鳳山元春挙などの著名作家により染色の図案などがデザインされるようになる。
また明治19年に幸野楳嶺は祇園の中村楼において、京都の美術会を進行させ世界に乗り出していくべきと説いたフェノロサの講演をきっかけとして、公平な視点から後進の育成をするために、久保田米僊らとともに京都青年絵画研究会を設立する。 これがきっかけで保守的な指導層の反発を受け、一時的に幸野楳嶺は京都を離れることになるが、明治23年には久保田米僊、幸野楳嶺、西村総左衛門らによって京都美術教会が設立されることになる。 この京都美術教会は会頭に北垣国道があたり、殖産を目的とした古美術展を毎年開催するなど活発に活動し、京都の美術会に大きな影響を与えていくことになる。
明治30年代になると多くのが画家や彫刻家がヨーロッパやアメリカへ美術を学ぶために渡航するようになる。 京都画壇においては幸野楳嶺に師事して四条円山派や狩野派などをを学んだ竹内栖鳳がヨーロッパに渡り、コローやターナーの作風をも学んで最も早く積極的に日本画のうちに西洋の技法を取り入れていくことになる。
帰国後、竹内栖鳳京都市立絵画専門学校を設立し、また画塾竹杖会を主催するなどして後進の育成に携わり、明治大正昭和と続いていく京都画壇に対して大きな役割を果たすことになる。

参考文献、URL
日本美術史 美術出版社
http://www.miyai-net.co.jp/gallary/genga.html
http://www.biwa.ne.jp/~sg-kinbi/artwork/shoukai/shoukai_01-12.html
http://www.kotoken.co.jp/ceradata/artist/paint-jp/takeuchi-seiho.html