神の起源

家に帰ると父親が BS のチベットを部隊にした映画を見てて、その中で道が崩れて、ヤクが川に落ちるシーンがあり、そこで人物が「悪魔に代価を支払った」という発言をした。

それを見ていて、以前の日記に書いていた神の起源というのはもしかしたらこう言うところにあるんじゃないかと思った。 今の時代のように様々なことの原因が解明されていないようなときだったら、自分達にとって都合のよい出来事は、良い不可思議な力のおかげ、自分達にとって悪い出来事は、悪い不可思議な力のおかげ、といった形でまずは始まったのではないだろうか。 もし原始的な人類がそう言う考えに至ったなら、次にはその良い不可思議な力を呼び寄せて、悪い不可思議な力を避ける方法をかんがえるだろうし、そうなるとそこにはフレイザーが金枝編で述べているような、感染や模倣による呪術や祭司がうまれて、それと同時にその不可思議な力により理解しやすい形の人格が与えられていったのではないだろうか。

この考え方だとゾロアスターからユダヤ、キリスト、イスラムと続く二元論てきな色合いの濃い宗教の神に関しては説明ができるけど、ギリシャや、北欧、日本などの多神教はどうするかというと、多神教を持つ民族は基本的に複数の民族の混合によるものであるというのがあるので、もともとはここの民族が持っていた二元論的な神が民族間での戦争や支配被支配混合などにより、神ももともと持っていた民族の性質を与えられながら、融合離散をくりかえして、多神教としての神話が形成されていったのではないだろうか。

        • 以下余談----

そう考えていくと、人に良い物が訪れるか、悪いものが訪れるかは運とか運命とか言われるものになるのだと思うけど、その運命自体を表現する神が世界中を見回しても北欧神話の3姉妹とギリシャ神話の3姉妹くらいしかいないのがおもしろい。 もしかしたらそういう存在は神話内での序列を崩壊させかねないから存在しにくかったのかもしれない.


キリスト教神学において昔論争されたものに、「万能の神はなぜ悪魔の存在を許すのか」というのがあったそうだけど、自分に言わせると善の方向を示すベクトルとしての神と、善悪を覆包する場としての神とを混同したことがそもそもの間違いではないかとおもうんだが。